LOGIN会場の注目が澪に集中する。
招待客は皆口々に「澪と仁は理想のカップルだ」と騒ぎ立てている。その声に応えるかのように、仁は澪をさらに強く抱き寄せた。耳元でなにかをささやいたかと思うと、愛おしいと言わんばかりの表情で澪にほほえみかけた。その姿を見た招待客は、歓喜の声を上げた。
花音の笑顔は完全に凍りついた。澪の婚約者を奪い、直哉と結婚することで、花音は澪に対して優越感を抱いていた。だが、それは粉々に砕け散った。
澪は、これまでにないほど美しい。しかも、最高級のドレスを身にまとい、世間を賑わせている会社のCEOにエスコートされているではないか。
花音はギリギリと歯ぎしりをした。奥歯を噛み締めすぎて、痛みが走るほどだ。
澪に結婚式のスピーチを頼んだのは、澪に辱めを与えてやるためだった。婚約者を奪い、澪のために作られたオーダーメイドのドレスも奪った。幸せな自分を見せつければ、澪の心は砕けるはずだった。
澪はたったひとりで、冴えないドレスとメイクで現れるはずだった。それを嘲笑ってやれると思ってい
ふわりとコーヒーの香りが鼻腔を満たし、目が覚めた。ベッドの中で伸びをすると、体が軽かった。このところ、睡眠不足が続いていた。けれど、昨日はしっかり眠れたようだ。それも、仁が家にいてくれたからだろう。 寝室のドアは、昨夜閉めたときのまま閉まっていた。 そっと開けて、リビングを覗く。ソファの上に、貸した毛布がきちんとたたんで置かれていた。クッションの位置まで元通りになっている。 寝室を出ると、コーヒーの香りが強くなった。仁がキッチンに立って、かちゃかちゃと音を立てていた。「おはよ」 仁の背後から声をかけると、彼が振り向いた。「やっと起きたか。体はゆっくり休めたか?」 仁の背後からキッチンを覗くと、彼は朝食を作ってくれていたようだ。「うん。ありがと。よく眠れたよ。仁は?」「俺もちゃんと寝れた」「本当? ソファじゃ寝にくかったでしょ?」 仁は一瞬口を引き結んだが、すぐに答えた。「ああ、大丈夫だった」 その割には、顔色がよくない。「ちゃんと寝れてないんじゃん……」 仁は目を逸らしたが、すぐに澪に向き直った。「ほら、飯できてるぞ。早く食わないと、仕事に遅れるだろ」 仁は「ほら、行った行った」とばかりに、澪の背中を押して洗面所へ追いやった。 洗面所で顔を洗い、Onlyéで肌を整える。たったそれだけで、肌にハリが出て、潤いも増した。これがOnlyé for youならどれほどいいか。考えただけでも肌がよろこびそうだ。販売が開始されたら、自分のものを頼もうと思っているのは仁には内緒だ。 リビングに戻ると、テーブルの上にコーヒーとワンプレートの朝食が並べられていた。プレートにはロールパンとサラダ、オムレツが乗っている。「簡単なものしか作れなかったけど」 仁はほおを指先でかきながら、言った。昨日の夜に澪の家へ来て、しっかり眠れていないはずなのに、澪のためにここまでしてくれる。そのことを思うと、胸
写真を持つ手が震える。足に力が入らず、その場にへたり込みそうだ。 ポストに手をかけ、必死に立っている。 もう放っておいてほしいのに、なぜこれほどまでに自分を痛めつけようとするのだろうか。 喉が締め付けられたように苦しい。呼吸が浅くて、うまく息が吸えない。 澪はぎゅうっと胸元を掴んだ。 ――助けて! そう叫びたくても、声が出ない。 こんなとき、誰にも頼れなくて不安になる。 そうだ、仁に連絡をしよう。 そう考えてスマホを取り出したが、手が震えて画面すら開けられない。 いや、仁に連絡して頼る前に、自分でできることがある。 写真をそっとハンカチに包んで、交番へ向かった。 一歩一歩踏み出すが、膝が震えている。踏ん張っていないと転んでしまいそうだった。 後ろを振り返りたくなる。誰かがついてきているような気がして、何度も足が止まりかけた。 振り返らなかった。振り返ったら、たぶん走って逃げてしまう。 澪は奥歯を強く噛みしめ、まっすぐ前を向いた。首筋に、じわりと汗がにじむ。 それほど遠くない距離なのに、交番に着いたときには息があがっていた。「すみません、相談したいことがあるのですが……」「どうぞ」 警察官に椅子をすすめられ、腰を下ろす。膝がガクガクと震えている。「どうされましたか?」 女性の警察官がにっこりと笑いかけてくれた。それだけで、体の力が抜けた。よほど力んでいたのだろう。肩がガチガチになっていた。大きく息を吸って吐くと、ようやく空気が肺に入ってきたような気がした。「あの……最近嫌がらせを受けていて……」「嫌がらせですね」 警察官がメモを取った。「はい。おそらく同一人物だと思うんですが、頼んでいないデリバリーや荷物が届いたり、この前はポストの郵便物を破られたりしました。それから今日は――」
Onlyé for youの発売まで、あと十日となった。 グロウセオリーのECサイトでカウントダウンが始まり、それに伴って、期待の声がSNSで広がった。 Onlyé for youは、このECサイトでしか購入できない。これだけ発売前から評判がよければ、きっと発売直後の売り上げも好調だろう。サーバーがダウンしないように、システム管理には依頼してある。 販売初日の売り上げを伸ばすため、澪はここ数日、ダーマコードに通い、仁と真壁との打ち合わせを繰り返している。既存顧客も新規顧客も喜ぶものを考えているのだが、なかなかいいアイデアが出てこない。「初回限定で容量を十パーセント増量とかはどうでしょう?」 澪が言うと、仁が首を横に振った。「いい考えだと思うんですが、セミオーダー商品ですから、初回は少量での購入をおすすめしたいです。AI診断も完璧ではありませんから、肌に合うかどうかわかりませんし」「確かにおっしゃるとおりですよね」 澪はペンを置いた。「かといって、ノベルティ、というのはちょっとブランドイメージに合いませんよね」「うちのお客さま、ものが増えるのを喜ばない層ですからね」 真壁が腕を組む。「うーん……。シートパックをプレゼントするのはどうでしょうか?」「肌に合わなかったときに、Onlyéのせいにされます」 仁が即答した。真壁が「ですよねえ」と天井を仰ぐ。 アイデアは出てくるのに、これといったものにたどり着かない。三人とも頭を抱えてしまった。「少し、休憩しましょう」 仁が切り出した。時計を見ると、もう八時だった。昼から打ち合わせを始めて、もう七時間も経っている。時間が過ぎるのが早いのは、集中しているからだ。 澪は、ふうっと息を吐いた。それまでなにも感じなかったのに、急にお腹が減った。「飯でも行きます?」 真壁が伸びをしながら言った。「そうですね、軽く行きましょう。それか
直哉のメッセージを、澪は無視した。 開いてしまった時点で、既読はついている。それでも構わなかった。 既読がついたのに返事をしなかったことが、気に食わなかったのだろう。直哉はしつこくメッセージを送ってきた。テーブルの上でスマホが震えるたび、画面がぼんやりと光る。きっと短い文章をいくつも送り、こちらからの返信を促しているに違いない。 澪はもう、開かなかった。 洗い物をして、明日の資料に目を通して、シャワーを浴びた。そのあいだも、スマホは何度か震えた。 湯を止めると、部屋は静かだった。 髪を拭きながら戻ると、通知の数だけが増えていた。直哉はあきらめたらしかった。 知りたくないと言えば、嘘になる。 花音は本当に妊娠していたのか。あの婚約破棄は、なんのためだったのか。 けれど、それを確かめるということは、あのふたりの生活のなかに、もう一度足を踏み入れるということだ。 産院を調べ、日付を突き合わせ、嘘の証拠を集める。 そうして手に入れた答えを、澪はどうするつもりなのだろう。 直哉に渡すのだ。あの人が、花音を責めるための材料として。 そこまで考えて、腕にぞわりと鳥肌が立った。 澪の手元には、もう、やるべき手続きがある。 発信者情報開示請求の手続き。証拠として保全した怪文書のコピー。会社の法務担当者と弁護士への相談。 憎しみに時間を使わない。手続きに使う。 自分で決めたことを、こんなに早く試されるとは思わなかった。 澪はスマホを手に取り、直哉とのトーク画面を開いた。 返信欄には触れない。代わりに、画面を上から順にスクリーンショットで撮っていく。 証拠は残す。返事はしない。 撮り終えて、スマホを裏返した。 これでいい。 これは、あの人たちの問題で、澪の問題ではないのだから。*
ポストを荒らしていたのは、小柄な女性。 お腹が膨らんでいるように見えた。 管理会社の言葉が、一晩中頭の中を回っていた。 やっぱり、花音? いや、まだ確証はない。防犯カメラの映像を見せてもらったわけではないのだ。 もしかしたら、別の人物かもしれない。確かな証拠がないのに、花音を責めても仕方がない。 相変わらず、会社にも怪文書が毎日のように送られてくる。 しかし、その内容は花音しか知らないものだった。「朝倉澪は大学受験に失敗した落ちこぼれだ」「朝倉澪は男運がなく、いつも振られている」 小学生じみた内容なのだが、これは花音しか知らない。 大学受験に関しても、失敗したというより、本当に行きたかった大学に学力が及ばず、泣く泣く志望校のランクを下げたのだ。下げた先の大学には合格できたが、本来行きたかった大学ではなかった。その意味では、失敗したと言える。 それでもランクの高い大学だったので、同級生からは羨望の眼差しを向けられた。けれど花音には、本当に行きたかった大学のことも、志望を変えた理由も伝えていた。 親友だと思っていたからだ。 合格発表の日、澪は花音にだけ電話をかけた。 合格したのに澪が泣いている理由を、花音だけは笑わずに聞いてくれた。「澪はすごいよ」と言ってくれた花音の声を、今でも覚えている。 その電話の内容が、いま、コピー用紙に印刷されて会社に届いている。 それに、男運がないことについても同様だ。 今まで付き合った人からは、ことごとく別れを切り出されている。人数は少ないが、確かな事実だった。しかも、最後に付き合った直哉も、最悪の形で澪に別れを切り出したのだ。 やっぱり、花音か。 それにしても、なぜ今さらこんなことをするのかがわからない。 澪からすべてを奪ったのに、まだ足りないというのだろうか。 そういえば、花音は今、妊娠してどれくらいなのだろうか。 澪は指を折った。
グロウセオリーに、怪文書が届くようになった。 最初は一通だった。次の日は二通。その次の日には、朝の郵便の束に紛れて三通あった。 それはほとんど、澪に対するものだった。「朝倉澪は男を弄んでいる」「朝倉澪は仕事ができない」「朝倉澪は美人じゃないくせに、自分がきれいだと思っている」「朝倉澪は二股をかけている」「朝倉澪は昔の恋人とよりを戻したいと思っている」 まるで小学生並みの内容だった。 それなのに、同じような紙を何十枚も見せられていると、少しずつ気持ちが削られていく。 またもや澪は人事から呼び出された。「朝倉さん。また、これ……」 会社に怪文書が届くたびに、澪はその内容を人事から見せられる。内容がくだらないだけに、人事も困り果てているようだ。「申し訳ありません。ご迷惑をおかけして……」 人事担当者は、顔の前で両手を振った。「いえいえ。朝倉さんが謝ることではないですよ。きちんと仕事もされていますし、ここだけの話、上司からの信頼も厚いですし」 人事担当者はそこで言葉を切り、「ただ」と続けた。「これだけの怪文書を、飽きることなく毎日のように送りつけてくるのですから、朝倉さんに恨みがある人物かもしれません。ご自身の身を守るよう、十分に気をつけてください」「そうですね……。ありがとうございます」 澪は人事部をあとにしながら、一体誰がやっているのかと考えた。「まさか……」 頭に浮かんだのは、ロビーで警備員に連れていかれた直哉の顔だった。 けれど、あの人は自分の手を汚すような真似はしない。汚れ役はいつも誰かに押しつけてきた人だ。 では、押しつけられる相手は。 そこまで考えて、澪は思考を止めた。 しかし、これほどくだらないことをするだろうか。







